昭和天皇 (岩波新書 新赤版 1111)

昭和天皇 (岩波新書 新赤版 1111)原 武史昭和天皇と貞明皇太后
 岩波新書から出版されたこの本は、昭和天皇の祭祀に対する並々ならぬ熱意と、そのことに関し、昭和天皇の母である貞明皇太后の影響の大きかったことに、焦点をあてています。

 主に、祭祀を重んじることについては貞明皇太后の影響が戦後にいたるまで非常に大きかった、というのが原武史氏の視点ですが、例えば、昭和45年の6月、貞明皇太后の御所だった大宮御所が飛び火で全焼したことに大きな衝撃を受けたのが、昭和天皇の和平への方向転換の一因だった、とするのもその分析の一例です。

 昭和天皇の母である、貞明皇太后(大正皇后)という女性の役割に注目したことが新しいのではないでしょうか。

 英語圏では、既に、貞明皇太后へのキリスト教の影響、賢明な女性だったということも紹介されてはいます。しかし、この本の著者は、逆に、貞明皇太后に“祭祀を疎かにした大正天皇”への反動がみられ、そんなふうに“頑迷な”彼女の発言力に懸念する者さえあったことに強い関心が寄せられています。

 貞明皇太后の存在が皇室にとって大きなものだったことは、徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』(新潮社、2007年)でも言及されているそうです。

  ただし、勿論ですが、著者の昭和天皇観と共に、こうしたことが貞明皇太后に対する公正な見方なのかどうかは、確かにこの本だけでは判断しかねますので、そこは注意した方がよいでしょう。

 そうは言っても、天皇と祭祀、昭和天皇の神道観、また、神道と生物学者としての立場との折り合い、などに興味のある方にも参考になる議論でしょう。

 二・二六事件、靖国神社についての言及もあります。史料に基づいた興味深い逸話もたくさん紹介されていて、陸軍武官の中には「この非常時に生物学研究なんかけしからん」と申し入れた者もあったことなど、他の側面から天皇制に関心を持たれる方にも示唆するものは多いのではないかと思います。

母である貞明皇后は琉球の聞得大君みたいに祭祀にのめり込んで…
 食糧自給率の問題から、衰退する一方だった日本の農業には今後、見直しが入ると思います。その時、新嘗祭を頂点とする宮中祭祀にも注目が集まっていくんじゃないのかと思っていただけに、タイムリーな感じ。

 面白かったのは皇太子時代などに地方巡幸を熱心に行っていた昭和天皇にはアナキストなどからもよく直訴状が差し出されたというあたり。溥儀が貞明皇太后を西太后に重ね合わせていた、というのも面白かったかな。

 また、秩父宮は陸軍士官学校時代、北一輝に私淑する西田税と同期で、東京の第一師団時代には2.26事件を起こした一人の安藤輝三と親しくなっていったそうで、2.26事件の前には昭和天皇に代わって即位するという噂がたったそうです(p.98)。このため昭和天皇は秩父宮を青森県弘前に流離させますが、2.26事件が起こると秩父宮は27日夕刻には東京に戻ってきたそうです。昭和天皇は2.26事件で、その人生で唯一といっていいほどの人間的な怒りを見せますが、こうしたことも背景にはあったのかもしれません。

刺激的だがあくまで仮説
宮中祭祀を軸に、天皇家、特に天皇と皇太后の複雑な関係を丹念に調べ、政治・軍事的指導者とは別の「先祖に祈る天皇」像を新たに示すことで、昭和天皇と昭和期の宮中の一つの空気を描き出すことに成功している。ただ、「?ではないか」「?かもしれない」といった文章が多いことからわかるように、本書が仮説に仮説を重ねた挑発的な昭和史解釈であることは紛れもない。

本書で昭和天皇が祈り続けていたことが明らかになったものの、何を祈っていたのかは明らかではないことのほうが多い。だが本書は天皇は三種の神器を死守することに固執し、「国民の生命を救うことは二の次であった」と序章から断定する。ほぼ同じ文章が第四章でも登場し、文中たびたび国民への責任意識の低さを非難する。

祈りか国民生命かという二者択一で祭祀を検証すること自体が、著者の昭和天皇理解のフレームワークを示している。三種の神器を守ることと国民を守ることは同一だという解釈の可能性を排除し、神に祈る暇があるなら和平のための政治的リーダーシップを発揮すべきだという著者の昭和天皇観は、実に戦後的と言える。

万世一系の天皇家と祖神への祈りと、平和と国民生命が、昭和天皇の中では区別なく同居していたと考えるほうが個人的には自然に思えるが、著者は国民生命を二の次にして祈った、戦後も国民への謝罪をしなかったと繰り返し論じる。先祖に祈る天皇を「神がかり」として戦後から断罪することは容易であるが、戦後の巡幸で昭和天皇を熱狂的に歓迎した日本中の国民は愚かだったのか。今も天皇、美智子皇后は戦没者に祈り続けて、その姿を国民は尊く眺めている。その戦前戦後を貫く国民性の由来を著者は各種の天皇の時間支配にしか求めていない。大正天皇の定説を覆した著者であっても、昭和天皇については感情的にならざるを得ない、それほど昭和天皇が研究対象として困難な存在であることがよく理解できる。

昭和天皇 (岩波新書 新赤版 1111)

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論語 (岩波文庫)

論語 (岩波文庫)ふーん
ふーんって思って読んでしまうのは僕の人生が薄っぺらいからだろうか。

バラバラなのが・・
古くからの礼節を事細かく、まさに散らばった宝石のように記されていた。

多少は区分けしてある物の、ジャンル別にわければ実用本になるのではないでしょうか。

ありがたいなと思うのは「行不由徑(行くに徑に由らず)」(雍也第六)あたり
 孔子の弟子たちにはマトモな編集者はいなかったのかよ…と思います。各篇は学而第一から堯曰第二十まで篇名が付けられていますが、それは単に初めに書かれている句から適当に取られただけ。内容的に吟味されて振り分けられてもいませんし、例えば「三年無改於父之道、可謂孝矣、」(三年、父の道を改むること無きを、孝と謂うべし)という言葉なんか学而第一と里仁第四に全く同じように載っています。

 でも、やはり世の中の実相(ますがた)を観察しているな、という感じが伝わってきます。例えば論語の最後の最後はこの言葉で締めくくられています。「猶之与人也、出内之吝、謂之有司、(ひとしく人に与うるに出内(すいとう)の吝(やぶさか)なる、こ れを有司と謂う)」。ここは五美四悪についての論議なんですが、訳注によると意味は「どうせ人に与えるというのに、出し入れをけちけちしていのを役人根性という」ですもんね。今も昔も変わらないな、と。また、そういった人の習性を孔子教団はよく見ているな、と思います。
論語 (岩波文庫)

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モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))ミヒャエル・エンデ大人になって読んでよかった
小学生のとき、ぶ厚いハードカバーで、優等生が感想文を書くイメージが強くって、結局敬遠して読めなかった。いい年の大人になって読んだけど、そのほうがよかったと思う。やっぱり名著。

この本を読むことで、ふだんの仕事のことを忘れて、時間の隙間がゆるみ、気分も晴れてくる。

大人が読むべき
子供の頃読んだ記憶がある「モモ」

原作者であるミヒャエル・エンデは、果てしない物語やモモというような物語だけではなく、エンデの遺言 という著書では貨幣とは何なのか、どうあるべきかを綴っている社会学者的な一面を持ち合わせている。

そういったところの興味から、かつて自分が読んだという記憶だけ残っているこの「モモ」はどういうストーリーだったのであろうかと、手を伸ばしたわけだ。

時間は限られている。そして誰にも平等に与えられている。何が無駄な時間で何がそうでないのか。子供が読むにはもったいないほどの高度な内容で、こういった本こそ大人が読むべきと感じる。

小学生の自分などはまさに残念すぎるほど理解できていないし記憶にも残っていない。

ただ、こういった本を買い与えてくれて、再度年月を経て改めて自身で読み直し、そして学びを得られたという結果を与えてくれた両親に対して改めて感謝をさせてもらう書籍となった。

ベッポじいさんのことば
未来のこと

全体のことを考えて行動することは大事。

でも、そう思うばかりに

いまのこと

次のひと掃き

大事なことを見失わないようにしたい。

ベッポじいさんのことば

たまに思い出す。
モモ (岩波少年文庫(127))

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雇用、利子および貨幣の一般理論 上 (1) (岩波文庫 白 145-1)

雇用、利子および貨幣の一般理論 上 (1) (岩波文庫 白 145-1)ケインズ難解だが、経済学を学ぶならば読んでおきたい
訳については比較できる立場にはないので、コメントは差し控える。

全体としては訳はわかりやすいと思うが、そもそもケインズの原著自体が難解であることで有名なので、読むのは骨であえる。

遊びがほとんどなく、理論の骨格がずしりと示されているので、本格的ではあるが、素人にとっては読むのは大変であった。

ただ、ケインズというと教科書程度しか知らないというのはもったいない。

ケインズといわれて、「失業対策に公共事業をして雇用を作れといっていた人ね」としか認識されないのではかわいそうだ。

今日では、ケインズというと公共事業で赤字垂れ流しという悪印象も強いかもしれないが、本書執筆当時は、失業率25%というまさに「危機の時代」だったのである。

多くの知識人が、大量の失業に失望し、社会主義・共産主義に傾倒してしまう中で、ケインズは資本主義を諦めなかった。

そして資本主義を復活させるべく書かれたのが本書なのだ。

一応本書のエッセンスだけを自分の言葉に直して記しておく。

有効需要の法則

(以下では、生産にかかる物的費用や機械の維持費はすべて共通なので抜いて考え、人的費用(労働)のみを対象とする)

総所得(個人の給料と会社の利益)は、総売上に等しく、総売上は、総購入費用に等しい。

所得の使い道は2つ、消費するか貯蓄するかである。

購入費用の出所は2つ、消費と投資である。

総所得が増えると、総消費も増えるが、総所得の増加分ほどには増えない(一部は貯蓄に回されるから)

よって、総所得ー総消費は、総所得が増えると大きくなる

さて、総所得ー総消費=総購入費用ー総消費=投資であり、投資は別の要因で決まる一定の値なので、総所得は、総所得ー総消費=投資となる分までしか大きくなれない。

つまり、政府の側が公共事業などで投資を増やさなければ、雇用量(総所得)も増えない。

利子は、我々が貨幣の有する流動性を手放すことの対価であって、貯蓄に対する報酬ではない。

すべての資産のうち自己利子率(現在のその資産の量と、一定期間後に、同じ価値を持つ量との変化割合)が最大のものと、すべての資産のうち限界効率(ある期間中に、そこからの収益・維持費・流動性などによって得る、あるいは失うと予測される割合)が最大のものとが一致したとき、これ以上投資は行われない。

そして、貨幣は、収益と維持費はほぼゼロで、需要が増大しても労働によって新たに作り出すことは出来ず、驚異的な流動性を持つため、自己利子率は全資産中で最大となる。

岩波文庫に拍手するとともに、強く強く推奨
塩野谷九十九氏の訳は未読だが、塩野谷祐一氏の訳は読了済み。一応塩野谷氏の授業も受けたこ

とがあるという資格でレビューをすると、本訳書は先行する塩野谷訳と比較してかなり読みやすいものに

なっている。ちなみに「読みやすい」というのは、ひらがなが多めにしてるとかっていうレベルではない。とにかく

読みすすむにつれおのずと思考を誘発させてくれる代物。しかも文庫なので値段やハンディさか言ってもこ

れは買い!!

先行訳の存在や、新たに蓄積された知的遺産の上に今回の新訳が出版されるわけなので、時系列か

ら考えても間宮訳のほうがブラッシュアップされてるのは当然でもあるし、そうでないと改めて訳す理由・メ

リットがない。

ちなみに、塩野谷氏の翻訳がダメな代物だと言うつもりも全くない。なぜなら、シュンペーターの翻訳本

で、東畑精一訳「経済分析の歴史」、東畑・中山伊知郎訳「経済学史」、塩野谷・東畑・中山訳「経

済発展の理論」を読み比べた場合、格段に「経済発展の理論」が読みやすくなっているわけで、訳者の

差分から考えると、読みやすさの所以は塩野谷氏の力量によると思われるからだ。

塩野谷訳はケインズ全集に収録される際に一般理論を翻訳したもので、間宮訳はケインズ全集が刊行

されて以後に翻訳されたものである。つまり間宮訳は、ケインズ全集が刊行されたことで出てきた新たな成

果(そこらへんは、例えば伊東光晴氏の「現代に生きるケインズ」やスキデルスキーの「ケインズ伝」とかを

読むのがよいかと)や、フリードマンをはじめとする反ケインズの流れを受けた上での、従来までのケインズ解

釈への批判と新たなケインズ像の模索といったことを踏まえて登場してきたわけなので、塩野谷訳とは、当

然のことながら時代的意義というか役割が違うだけのこと。あえて言うならば、村上春樹氏が改めて「グ

レート・ギャツビー」の新訳をいま出すのと同じことだと思っている。

つまり、「あれか、これか」といったことではなく、いま間宮訳を強く推奨する、ということである。

ケインズを超えたケインズの一般理論です
小生の学生時代には有斐閣から出ていた参考書で「一般理論」を読んだつもりでいました。原書を読んでもわからなかったからです。いまは手元にHarvest Book社の原書があります。とぼとぼ読み進めていますが、難解です。間宮氏の本書は「一字一句に至るまで」「逐語訳」を極めたと自身がおしゃるように、実に周到な的確な訳です。小生の英文解釈の教材としては、最高の出来栄えです。最近の社会科学書の翻訳はどれも時流ものばかりで、訳に間違いも多く、勉強が浅いと感じられるからです。そういう浅薄な時代の中で、本書には訳注が300あまりもある。すでに一つの研究書です。しかもその注の内容がすごい。たとえば「消費財」と原文にあるところを「消費財もしくは資本装備」とすべきだろう、とまで読み込んでいる。ここまでくると、ケインズを越えて、本来あるべきケインズの一般理論、という域に達しています。ちょうど赤塚忠氏の「荘子」の注釈本を思い出します。

また、その注釈を合わせて読むだけでも、経済学史を修めることもできそうです。ハロッド、ロビンソンなどがケインズとどういう点で結びついていたのかを詳細に知ることができます。

大学生諸氏、間に合わせの勉強も必要でしょうが、学生時代にひとつ、原書を講読したといえるためにも本書を徹底的に精読されてはいかがでしょうか。
雇用、利子および貨幣の一般理論 上 (1) (岩波文庫 白 145-1)

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ご冗談でしょう、ファインマンさん〈下〉 (岩波現代文庫)

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈下〉 (岩波現代文庫)リチャード P. ファインマン本書の上巻では若く初々しかったファインマンの姿に触れることができるが、下巻では、成長したファインマンが1人の「物理学者として」物理のみならず社会や芸術とかかわってゆくさまに触れることができる。 どんなに権威者になっても(彼はそう呼ばれるのを何よりも嫌ったが)、彼は決して物理学者としての誠実さを変えることはなかった。サバティカルでブラジルの国立研究所に滞在した彼は「教科書を丸暗記するだけ」の物理の大学教育に業を煮やし、ブラジルの「お偉方」の大学教授たちの前で「この国では科学教育が行われていない」と言い放った。またあるときは、学校教科書の選定委員としてすべての教科書に目を通し、教科書の内容が科学的誠実さを欠いているのを真剣に怒り、他の委員たちと闘った。 彼の信条でもある「好奇心」は年齢を重ねてもとどまる所を知らず、カジノではプロの博打うちに弟子入りしたり、ボンゴドラムでバレエの国際コンクールの伴奏をしたり、また、幻覚に強い興味を持った彼は、旺盛な好奇心からアイソレーションタンク(J.C.リリーが発明した感覚遮断装置)にまで入ってしまう。彼は他人のことなど気にとめず、素直な心で物事を見つめ、興味をひかれたらそれに夢中になる。彼は何より人生を楽しみ、人生を愛していた。 そんな彼の書いた本書に触れていると、いろんなことを話したくってうずうずしている彼が、目を輝かせて楽しそうに自分に向かって話しかけてくれているような気分になる。そんな気分にさせるのは、大貫昌子による素晴らしい訳のおかげでもあろう。訳者はファインマンと親交があり、彼に相談しながら翻訳作業を行っているため、原文の持ち味が十分に表れている。(別役 匝)
ファインマンの自伝が文庫になった
ファインマンの自伝が文庫になった。

物理学の教科書といえば、ファインマンのが分かりやすい。

そのわかりやすさの源泉がこの本から伝わってくる。

せっかくこの自伝を読んだ人は、ぜひ、ファインマン物理学も読んでみてください。

ちょうど、高校2年生が読んで、理系に進もうと思ってもらえるのが一番嬉しい。

お子さんが高校生ならぜひ、買って居間になにげなく置いておいてください。

ファインマンに会ってみたかったなあ
大学時代に、ファインマン物理学の本のわかりやすさに感動しました。その物理学の教科書に、ファインマンがボンゴを叩いている写真が掲載されていましたが、その背景もこの本を読んでわかりました。この本のエピソードの一部については、ファインマンの肉声のCDも発売されていて、通勤車内で聴いていると思わず笑ってしまい、でもとても勇気をもらいます。間違っていることは権威者にでも間違っているというファインマン、一方で、誰にでも暖かい思いやりを持っていたファインマン、彼のレター集を併読することによって、ますますその人柄を愛さずにはいられません。

最高。凄い面白い。が、準フィクションであることは注意したい
 上下ともに面白く、ファイマンが語った準フィクションを集めた本。

(純粋な自伝的エピーソード集という以上にフィクション度が高いとのことだ)

 まず、読み物としての面白さだけでも、すこぶるつき(これは上下ともに)で、3回も読んでしまった。

 そのように、大変に面白い本でありながら、下巻は別の意味で注目に値する。

 なんというか、ファイマンが疑似科学的な主張や領域に対して抱く、好奇心と懐疑精神の融合が

いかんなく発揮されている話が散見され、そういう意味でも読む価値がある。

催眠の被験者としての詳述や、感覚遮断タンク、虫の知らせ、などなどなど。

 不思議なことに驚嘆し、知的好奇心を持つということは、チンケな超常現象に対してかたっぱしから、

「心を開く」ことではなく、事実へ対する愚直なほどの誠実さ―科学的懐疑精神―によってこそ、

本当に価値をもつのだ、ということが伝わってくる。

 私は一生忘れないだろう。

リチャード・ファインマンという科学の精神性を体現した男がいたことを。

その男が、健全な懐疑精神を手離さず、同時に好奇心の塊であり続けたという現実を。
ご冗談でしょう、ファインマンさん〈下〉 (岩波現代文庫)

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広辞苑 第六版 (普通版)

広辞苑 第六版 (普通版)新村 出進化し続ける辞書
広辞苑は日本語の指標のようなものだ。

出たらなるべく早く、最新の用語の記述の不具合を探すようにしている。

まだ、今回の辞書ではおかしなところは見つけていない。

新たに買う必要があるかといわれれば、第5版を持っているのならいらないでしょうと答えたい。第4版でも十分だと思う。第3版をお持ちの方は、購入を検討してもいいと思います。さすがに、30年以上経つと、用語が違いすぎるような気がします。

ps.

電子辞書なら、すぐに買い換えをお勧めします。

国語の標準を示す、一つの金字塔。
日本語の正しい用い方を調べたいとき、第一に引くのが広辞苑。

辞典なので、様々な説の主力となる意味や用い方を示す。

日本語の用法の、ほぼ主力といってよい内容が、もっとも多く記載された辞書。

完璧を目指しているだろうが、異説もあるかもしれない、また間違いもあるかもしれない。

それでも、一度は使ってみるべき大作。

最高峰の国語辞典
言わずと知れた国語辞典の最高峰。10年ぶりの大改訂とあってさっそく予約し手に入れた。予想にたがわず、充実したものとなっておりさすがに広辞苑はすごいと感じた。

ただ大辞林も購入したが(もったいない)こちらも素晴らしく内容的には甲乙つけがたいと思った。伝統、格式の広辞苑、万人向けの大辞林と言うところか。

なお広辞苑の付録については賛否両論あるようだが私は良いと思った。
広辞苑 第六版 (普通版)

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ご冗談でしょう、ファインマンさん〈上〉 (岩波現代文庫)

ご冗談でしょう、ファインマンさん〈上〉 (岩波現代文庫)リチャード P. ファインマンR.P.ファインマンは1965年にJ.S.シュウィンガー、朝永振一郎とともにノーベル物理学賞を授賞した天才的な物理学者である。こう書くと「理数系が苦手」な人は逃げ出したくなるかもしれないが、そんな人にこそ本書を手にとっていただきたい。 本書は20世紀を代表する天才物理学者の自伝ではない。R.P.ファインマンという人生を楽しむ天才から我々への贈りものである。
「ファインマンと聞いたとたんに思い出してもらいたいのは、ノーベル賞をもらったことでもなければ、理論物理学者であったことでもなく、ボンゴドラムでもマンハッタン計画でもない。僕が好奇心でいっぱいの人間であったということ、それだけだ」といつも言っていた(下巻訳者あとがきより)。 「なぜだろう?」といつも好奇心いっぱいの子どものように世界を見て、いったん好奇心をひかれたらそれに夢中になり納得のいくまで追求する。彼は一切の虚飾と権威を嫌い、相手がそれをかさに着ているとみるや容赦しなかった。それは、そのような態度が、楽しいはずの真実の探求を邪魔する厄介なものだったからである。 上巻では、彼の少年時代、物理学者としての修行時代、また駆け出しの物理学者として携わったマンハッタン計画から終戦を迎えるころまでのエピソードが収録されている。どの時代においても彼はその状況を最大限楽しみ、そして、決して流儀を変えなかった。
自分が理系か文系かなんて関係ない。もし少しでも本書に「好奇心」を持ったなら、ぜひ一読をおすすめする。(別役 匝)
ファインマンの自伝が文庫になった
ファインマンの自伝が文庫になった。

物理学の教科書といえば、ファインマンのが分かりやすい。

そのわかりやすさの源泉がこの本から伝わってくる。

せっかくこの自伝を読んだ人は、ぜひ、ファインマン物理学も読んでみてください。

ちょうど、高校2年生が読んで、理系に進もうと思ってもらえるのが一番嬉しい。

お子さんが高校生ならぜひ、買って居間になにげなく置いておいてください。

ファインマンに会ってみたかったなあ
大学時代に、ファインマン物理学の本のわかりやすさに感動しました。その物理学の教科書に、ファインマンがボンゴを叩いている写真が掲載されていましたが、その背景もこの本を読んでわかりました。この本のエピソードの一部については、ファインマンの肉声のCDも発売されていて、通勤車内で聴いていると思わず笑ってしまい、でもとても勇気をもらいます。間違っていることは権威者にでも間違っているというファインマン、一方で、誰にでも暖かい思いやりを持っていたファインマン、彼のレター集を併読することによって、ますますその人柄を愛さずにはいられません。

最高。凄い面白い。が、準フィクションであることは注意したい
 上下ともに面白く、ファイマンが語った準フィクションを集めた本。

(純粋な自伝的エピーソード集という以上にフィクション度が高いとのことだ)

 まず、読み物としての面白さだけでも、すこぶるつき(これは上下ともに)で、3回も読んでしまった。

 そのように、大変に面白い本でありながら、下巻は別の意味で注目に値する。

 なんというか、ファイマンが疑似科学的な主張や領域に対して抱く、好奇心と懐疑精神の融合が

いかんなく発揮されている話が散見され、そういう意味でも読む価値がある。

催眠の被験者としての詳述や、感覚遮断タンク、虫の知らせ、などなどなど。

 不思議なことに驚嘆し、知的好奇心を持つということは、チンケな超常現象に対してかたっぱしから、

「心を開く」ことではなく、事実へ対する愚直なほどの誠実さ―科学的懐疑精神―によってこそ、

本当に価値をもつのだ、ということが伝わってくる。

 私は一生忘れないだろう。

リチャード・ファインマンという科学の精神性を体現した男がいたことを。

その男が、健全な懐疑精神を手離さず、同時に好奇心の塊であり続けたという現実を。
ご冗談でしょう、ファインマンさん〈上〉 (岩波現代文庫)

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知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)梅棹 忠夫発想は現代的
第1刷が1969年に発行とのこと。

当時はパソコンもワープロも無いからひらがなタイプライターで手紙を書くなんていう話が出てくる。

というふうに、使用可能な製品化されたテクノロジーの選択肢としては当然ながら古いのだが、梅棹忠夫さんの合理的なものの考え方や柔軟な発想はまったく古さを感じさせない。

たとえば、カードの活用とか、規格化の奨め、などなど。

40年前に書かれたとは思えない。

パソコンやインターネットなどの道具立てを盛り込めばそのまま最新刊のビジネス書・啓蒙書として通用するのではないか?

ロングセラーには理由がある
初版は1969年、今年2月出版は77刷(!)というロングセラー。「ウェブ時代をゆく」で梅田望夫氏が影響を受けた本として紹介していたので手に取りました。

知的生産(何かを読み、調べ、整理し、考え、文章を書き、発表するまでの一連の作業)を取り巻くインフラは本書が書かれた40年前からはかなり変化(進化)していますが、それでも書かれていることは極めて有用で、現在でも通じる普遍性をもっています。それだけ、著者に先見性があったのでしょう。その慧眼に感服せずにはいられません。

具体的な内容ですが、私が興味深く読んだのは、後半のいわばエッセイ的な項目と感じた「読書」と「文章」の項。読書法に関しては読書と食事のアナロジーには強く共感できますし、

「文章を書く」(パソコンを使わずに)ということを突き詰めて考えてみるきっかけになったような気がします。

ちなみに、「タイプライター」の項は、パソコンと文書作成ソフトが普及した現代では考えられないような苦労と試行錯誤ぶりが面白いです。単純に読み物として楽しめました。

今でも通じる実用的な内容と、歴史を振り返る娯楽的内容(もちろん著者が意図した訳ではなく40年間の社会の変化がそうさせたのですが)が混在した、大変興味深い一冊でした。

知的活動の原点をいま一度見つめるために
知的な生産活動において一番肝心な点は、

【対象に対してあれこれ考えを巡らすこと】と【実行すること】

という原点を思い起こさせてくれます。

紹介された具体的な方法論が、時代遅れであることは否めませんが、

その根底にある思想の素晴らしさは変わりません。
知的生産の技術 (岩波新書)

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ルポ貧困大国アメリカ (岩波新書 新赤版 1112)

ルポ貧困大国アメリカ (岩波新書 新赤版 1112)堤 未果アングロサクソンの価値観ー投資利回り最大化
欧米と簡単に言う人が多いが、英米とヨーロッパ大陸諸国では価値観はかなり異なっていた。英米では、企業は投資家(株主)の利益を最大化するために存在すると考えてきた。これを一言で表現すると、「投資利回り最大化」になる。投資利回りを最大化する方法は昔から決まっていて、発展途上国の中で一番優秀な国に投資することである。有能な人材を安い賃金で雇えて、効率よく物を生産できる国に投資することである。

ヨーロッパ大陸では、企業は地域社会に貢献するために存在すると考えてきた。雇用を維持し、地域の文化・経済に貢献するために活動すると考えてきた。これが後になって、国家に貢献するために発展していくのだが、ともあれ日本の考え方はヨーロッパ大陸のほうに近かったと言えよう。

19世紀のイギリス資本は根こそぎアメリカに移ったが、当時は投資利回りを最大化できる国がアメリカだったからである。そして今、アメリカ資本はアメリカ国内の工場を閉鎖して、中国・インド・ブラジル等に生産設備を移している。これは「投資利回り最大化」という価値観からは正しい行動である。

しかしアメリカではその結果、中流階級が就ける安定した仕事が激減して、安い時給のパートしか見つからなくなってしまった。それでも統計上は、失業者には入らない。そして地域社会は荒廃し崩壊していく。その一方で、投資できるまとまった資金を持つ富裕層はますます儲かるようになり、美観が保たれた高級住宅地に住むようになり、社会の二極分化が加速して進行していく。これがアングロサクソンの価値観の行き着く先なのである。つまり上位10%の富裕層のために、残り90%を犠牲にするのがその本質である。

個人を押しつぶす大きな歯車が回り始めたのか?
恐ろしさを感じる本です。何が恐ろしいかというと、それが現実だからです。国や、人種や、宗教の違いを超えて、人が人として暮らせないシステムの大きな歯車が地球規模で回り始めたような予感を抱かせる本です。豊かな国とは、貧しく路頭に迷う人々が少ない国、というのは幻想であることが分かります。どんな人でも幸せに暮らせる、つつましくでもいいので安心して暮らせる。そういった国にするためにはどうしたら良いのか。今なら間に合うのか。深く考えさせられました。日本もまさに瀬戸際にいるのかもしれない。たった今、リアルタイムに起きている変化を考えるためにも、まさに一読すべき本だと思います。

貧困から見たアメリカ
 「ある程度の富の再分配は、必要である」事が、この本の主張である。

 教育・医療など、民間企業風の効率重視・利益本位が全て正しいといえないジャンルも見極めるべきであり、何でも「民営化」がいい方法とは、いえないのである。

 そういう「生存権」的な部分をある程度保障しなくては、一度「低所得」の立場になってしまった人が、生活を立て直すチャンスを奪ってしまう。

 低所得であるという事は、日常の生活にも窮乏している為に、人生の選択が狭まるのである。そして、「収入を得る為には、仕事が選べない=弱者」の立場にたたされてしまう。

 すると、その弱みを利用して、“労働条件に文句を言わない低賃金労働者”を供給するというビジネスまで出来てしまう。やはり、ある程度国や政府レベルで調整をかけなくては、「健康的で文化的な生活」を保障するのが難しくなる。

 と、ここまでは納得できたのだが、後半の憲法九条に救いを持ってくるところが、私としても、やや違和感を感じました。殆ど論証をされずに、唐突に結論を持ってこられた感じは否めません。だから、星は4つ。
ルポ貧困大国アメリカ (岩波新書 新赤版 1112)

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